昭和52年10月03日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
昨夜、夜の御祈念変わってから、今度教典感話集が記念祭の記念出版になります。それを何回も何回も読み返してあるのですけれども、もう一遍読み返しというので、最後に私に持って、若先生が来ましたから、それを昨日丁度十二時半頃まで掛って読ませて頂きました。本当に一字一画でも間違ってはならないというので、まあみんなが入念に読めば読むたびに、そういうちょっとしたミスがあるわけですけれども。高橋さんが昨日は、終日その事にかかられました。
で今朝もう愈々本出版に掛りますから、今朝もう持って行かれるわけです。もう本当にこれが小説か何かならば、さぁっと書き続けて、ま例えば行くわけですけれども、とてもこれは一年、二年で書ける事ではないなと私は思いました。本当にあの私のちょっと思いつきぐらいで書けるもんじゃない。もうその日その日、しかもあの夏の修行、夏季信行の時間だけ、丁度二年間で百八十三か条の、いうなら御教えが丁度、丁度二回通り廻ることになります。
それで一つのみ教えに、二日分のいわゆるミニ御理解、ちっさい御理解がもう読み返させて頂いとってその、間違っておるところをみるために読むのじゃなくて、もう本気で読んでいきよるわけですね。読み出したら結局止められない。素晴らしいなあと私は思いながら、読み終わらせて頂いたんですけれども。、高橋さんが一番初めにこういうミスがありますよと言うて、もう表紙を開けたところに言われるんです。
それがどういうミスかというと、結局私が書いたのですから、著者は私になってるわけです。大坪総一郎でなからなければならんのに、大拝み総一郎となってるんです。だからこれは、このままの方が良うはなかのと言うて、冗談に申しました事ですけれどもね。その大拝みと言う事がいいじゃないですかね。やはりミスでも、神ながらな事だなと言う訳ですよ。今日私は拝むという事が、この六十八節に、幾らも出てくるわけですけれども、人にものを言うとおりに、例えば、拝めという事。
やはり大拝みが出来るように、お互いならせて頂かなければ、拝まんならんのじゃなくて、拝まずにはおられない。最近はご信者さん方も増えましたし、ずうっと長い間ここのご信者さん達の上の事を、まあそれはもう本当に、私の心に浮かぶ限りの、例えて言うと大分支部の、松尾さんとか竹野さんとか、梅野さんとかがありますよね。もうそういうところはもう梅、松、竹と言うて拝むわけです。
その人達を心の中に描きながらね。梅松竹になるでしょうが、でそう言う様な拝み方でもどうしても、やはり私が控えで三十分間拝ませて頂いて、そしてここで一時間では足りないです。この頃どうしても一時間十五分ぐらいかかりますでしょう。ですからもう少し簡単な拝み方に、変えていかなければならんと思いますけれども、あの結局私の大拝みです。しかもそれは天下国家の事から入ってくるのですから。結局その拝まずにはおれないというものが、私は信心のいうなら芯でなからなければならない。
教えを頂く教えを解する。又は解さなければいけんから、それを行ずると言うても、行ずるためには、どうしても大拝みが要るんです。合楽の方達は、このここではいわゆる御理解がいつも中心になります。お話が中心になりますから、どうしても御理解だけは熱心に頂きます。昼御祈念後に参ってくる方達でも、御理解だけは熱心に頂いて帰りますけれども、まいっときゆっくり拝まんのち、こっちから言おうごと、その簡単にみんなが拝んでおるようですね。
どうしても拝むというその心がね、どうしてもその有難いと思う心におかげがあるじゃなくてから、拝む心におかげがあるという風に思うです。その拝む心というのは、ただ自分の我情我欲のだけを、ただ願うというだけではなくて、拝む中には詫びもあればお礼もあり、同時に願いは尚更の事ですけれども、それはやはりなら繰り返し繰り返し、人にものを言う様に拝む。そこからいうならば、本当に拝む者でなからなければ分からない心の状態というものが開けてくる。
私はね少なくとも御神前には、大祓信行は致しますね皆さんが。これは五巻なり十巻なり皆さんが、これは但しもう無条件です。条件があっての事ではありませんけれども、祈念というのはそこに、やはり色々な侘び又は願い、お礼と言った様な内容になってくるわけですけれども、その拝む事がせめてやはり心ゆくまで拝むと言う事。それは一時間二時間もかかる事があるかも知れませんけれども、せめてですこれはなら私が一時間という、その御祈念を致しますように。
皆さんでも御祈念の時間が短か過ぎりはしないだろうか。いや拝まんならんと思うたら、三十分でもそれは、大変述ない事ですが。けれども拝まずにはおられない。私はその拝まずにはおられないと言う所に信心が育つと思うのです。それが段々それこそ信ずれば成りであって、信ずるならば信ずるほど拝まずにはおられない。拝む時間をもちっと長くする延長する。そしてそれが拝まずにはおられない。自分の拝んでおる内容がどんな事だろうか。今日もいうならば身の上安全。商売繁盛。
例えば自分の家族の事をお願いをするというだけではなくて、その拝む内容がその人の信心の、いうならば内容だと言うても良いのではないでしょうか。すると自分の信心の内容が分かります。もう毎日お取次を頂いてお願いをしておるから。でもその事が本当に成就する事のために、祈らずにはおられない願わずにはおられない。それもそんなら判で押したように。何々にし奉るといったような、例えば言葉を使わなくても、人にものを言う通りに、日々の祈りというものがなされる。
そして日々やっぱり、願いの内容も変わってこなければ、ほんなら変わってくると思うんです。それをどうぞただ健康でありますように、家繁盛子孫繁盛のおかげを頂きますようにと、ただ五つの願いなら五つの願いがしただけではどうだろうかと。「雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん、その辛抱こそ」とこう言われる。私は御神前に座る、私は御祈念の時間にも、やはりそういうものが要るのじゃないでしょうか。今日は疲れたけんざっと拝もうと思いよる。
今日は気分が良いからひとつ長々と拝もうと、言った様なものではなくてね、それを徹して拝ませて貰えれる修行が私は身に付くと。ただ雨風の事だけではない。拝む修行が要る。そして心行くまで拝ませてもらう。特に日々の中に様々な心に掛る事、また心に特別に思いを強くする事がございましょうが。例えばテレビを見ておっても。人の話しを聞いておっても何か心惹かれるもの。また願わずにはおれないような事を、聞いたり見たりする事がございます。
そういう願いをいちいち、自分の祈りの中に織り込んでいくと、その祈りに何かそれこそ、斬新な祈りが出来ます実感ですから。様々な難儀な様相が、新聞やらテレビ、ラジオに報道されます。時に本当にテレビを見ながらでも、ラジオを聞きながらでも、本当に心が寒うなる様な事を聞いたり致しますと、やはり思わず祈らずにはおられないでしょうが。そう言うのが日に何回かやっぱりあるです。だからそういう心に強く感じた事をです。もう強く感じた事をその事を申し上げておりますとね。
その祈りがもう非常に強く何というですかね。心が引き締まる思いで御祈念が出来ます。だからその事のおかげで他の祈りまでが、生き生きとしてくるんです。マンネリにならないです。私はいつかテレビを見ておりましたら、どっかオーストラリアかなんかの、砂漠の様な所に住んでおる原住民の親子が、そのもうほんの裸の生活ですよね、気候が良いから。そして夜は冷えるから砂をかぶって寝るんです。そしてなら別に仕事というわけでもないのですから、ただ毎日毎日の食料をその捜し求めて歩くわけです。
何が主食かというと、その土地に一番多くおるトカゲなんです。もう親子でこう追い出しては、はあ親父がこう捕まえると、子供がこうこやって追っていきよる。そういうのを見ておった時に、そのもう穴の中に逃げていきよる、そのトカゲを子供がしりっぽを握って、こうやって引き出しよるわけです。もうしら真剣です。もうそん時に思わず、金光様と私がお願いをした事があるんですけれどもね。でその願いが何時も心の中に浮かんでくることがあります。
そん時に真剣にその事を願った実感です。トカゲは可哀想ですけれども、それはもうその親子が、例えばあの一匹なら一匹捕れたら、その日一日の親子の食料はあるわけですけれども、まあ腑が悪くて捕れない時なんかは、あの食べられないのです。だからやっぱ真剣です。ですからどうぞつかまえますようにと、一生懸命しりっぽ引っ張って、引き出しよるとを見てから、こっちが祈って加勢するような思いがね。そして世の中にはそう云う様な人達が、沢山あるだろうと。
それはほんなら食べる事に毎日をかけて、一生懸命しておる人達の事を、その事からずっと輪を描くように、沢山の人の祈りが出来るようになるです。私は今日は特にこの拝めという事。昨日高橋さんの、がこんなミスがあると。大拝み総一郎と書いてある。そのところから私は一つお互いがね、もう少し拝む事の大切な事をです、覚えさせて貰うて勿論祈りの内容も、段々変わってこなければなりませんが。
真剣にその事が祈れれるおかげ。ここでは自分のいうなら、関係の方達の事を手帳やら、お届け帳やらを作って祈っておる人達が、まあ幾らもあります。これは大変良いと思いますね。毎日その祈りをその方のために祈られる。お商売をさせていただくなら、自分の従業員なら、従業員の一人一人だけではない、その家族までの事が、祈れて初めて本当の良い店長であり、社長であると私は思うです。ただ自分の店の事だけが祈れるというじゃなくて、縁あってその店に来ておるのですから。
だから縁ない人達の事までも、いわば祈るわけには参りません。けれどもテレビならテレビを見とって、とりわけその実感するですね、気の毒な事じゃとか可哀想な事だとか、何か祈らずにはおれないものが、こう、それを切実に祈っておるとね、その祈りが、こう波紋を描くように、大きな祈りになって行くんです。家庭の事でも自分のお店の事だけでも、本当に従業員の一人一人の事を祈らせてもらう。
そしてあらほんにあれの事を、あの人の事をお願いするとを、忘れたと思うたら、また拍手してその人の事を拝まずにはおれない。そういう生き方を、私は神様は大拝みという風に間違いして下さったのじゃなかろうかと、私は思うんですね。本当にあの信心の楽しさというものはね、やはり拝む楽しさもあります。拝み方が段々粗雑になってくる。これはもう、本気で拝まにゃいけんです。しかもほんならそれは。それこそ梅、松、竹でも良いわけです。
祈りの内容が愈々広く大きくなっていく。初めから天下国家の事なんとは、それこそ空々しい事。やはり自分の身近な所から、段々段々祈りと言うものは、広めていかなければならない。そして一時間祈ってもまだ足らんというごと段々なれば、もっと有難い事ですからね。一つ大拝みの何々と言う様な一つおかげを頂き、又はそういう体験をされると、拝む事の愈々尊さが分かってくると思うですね。
どうぞ。